だってこれは、短いけれど幸せな夢なのだから。

(例によって2ヶ月ほど寝かせたエントリー)

蜘蛛女のキスを観に行ってきました。

グローブ座なんてチケットは易々と取れないだろうし、これからは期待しすぎず、肩の力を抜いておたくをする方がいろいろ向いてるのかも...と思い始めた矢先に名義が(ほぼ)初仕事。ちょっと距離を置いて眺めていくだけにしようと思ってたのに、一気に熱を引き戻されてしまうような舞台だった。

観に行けてよかった。今はその感想に尽きる。

 

さて、舞台に限らず、映画とか本とか私が「いい!」って思うものは基本的に”考えさせられるもの”なんですよね。観客が考える幅が与えられる作品とも言いかえられる。感想っぽいものを持つことは持つけど、それ以上に物語の展開とか台詞の解釈とか行間にすら含まれていないような部分を考えてる方がずっと多いしずっと楽しい。

蜘蛛女のキスはまさにそんな舞台だった。観劇後も考えることがとまらないし、ネタバレ避けて見れてなかった他の方の考察を貪るように読みたい。
観劇から時間が経ってしまったけれど、原作や舞台で感じたことをつらつらと残しておこうかな。うまくまとまる気がしないけれども。

入れどころが分からずここで記述するけど、どの作品でもキスシーンやベッドシーンの有無に過剰に反応するのはなんでなんだろ?ジャニーズだから?物珍しいから?本来なら当事者以外知りえない事情だから?
ゲネプロの後の会見でも、ラブシーンについて訊いたりとかさ...いや、台本に書いてあるからやるだけじゃない?そこに何を求めるっていうんだ。。内容についてもっと深く触れてくれ。。とさえ思ったけど、まぁ設定が設定だから触れるのは自然なのかな?初日前だから内容に深く触れるわけにはいかなかったのかな。。すんごいモヤった。twitterでその部分に過剰反応するおそらく年若い子もいたり、ブログとかでその部分だけに注目するのは...って書かれてる方もいたりで、反応はほんとに多様だなーと。

本編について

「この作品はハッピーエンドである」「究極のラブストーリー」
あまり前情報を入れたくなかったけれど、本人や演出家さんからの言葉でそう言われていたことは入ってきていた。
その他、私が知っていたことといえば革命家と同性愛者が監房の中で不思議な愛の関係を築くこと。それくらいの予備知識だった。

実際観劇後は、
・革命家というよりも政治犯として逮捕された、ゲリラ組織の一員
・未成年に対する非道徳的行為によって逮捕されたトランスジェンダーの女性

この2人が監房の中でお互いを受け入れ合うってストーリーだと解釈した。え、同じだって?私は結構違いを感じて衝撃を受けた。


*****
初めに、会場が暗転してギターで奏でられるタンゴが流れ、暗闇の中で会話が始まる。
いよいよ始まっちゃうという高揚感と、アルゼンチンが舞台だからタンゴなんだなっていう分析が同時に脳内を駆け巡った。
いっけいさんに続いて聞こえてきた声が誰のものかわからなかった。なんだか混乱していた。

あれ?これは彼の声?

一瞬そんな疑問が頭をよぎったけれども、不安や戸惑いを認識する間もなく彼はこの舞台に出演している役者なのだと実感するのが早かった。その時点でちょっと涙が浮かんできた(ゆるめ)。と同時に、口を大きく開けて発声している発音と、聞き取りやすいように意識している滑舌なんかが聞き取れて、ストプレ初めてだもんね、という思いと、このわざとらしい口調が言葉を操る革命家?政治犯?の語り口を表しているのかもなという思いが頭をよぎった。(脳内多元放送中)

まず、発せられる声色がこれまでとは違う。大倉から響いてくるヴァレンティンの声は、新しい音であった。そして、これは初ストレートプレイゆえの巧妙なのか。台詞回しがこなれていないことが、投獄生活の戸惑い、革命や今後のことに対する不安……ある種、安定していなくていい男の姿にピタリとハマる。
BEST STAGE Vol.8の記載なんだけれど、これまるで私が寄稿したっけ?と思うくらいだったので、こう感じた人がきっと多かったんだろうね。笑

あーやっぱり舞台調の台詞回しになってしまうのか...と残念に思っていたところ(個人的趣味)、ちょっとずつモリーナに心を開いていくに従って、少しずつ口調が柔らかく砕けて親しげになっていくのを見て、演技だったんだって気付かされた。わざとらしい?なんて思った私が恥ずかしい。演出だよ演出!!!

 

ヴァレンティンは魅力的な男だった。女を馬鹿にするようなことは言うけど負けず劣らず癇癪持ちでその上理屈っぽく、素直で誰かに必要とされたくて寂しがり屋。好きな食べ物を譲ってあげたり苦しんでいるモリーナに寄り添ってあげられる優しさを持っている青年。世界を変えたいと大いなる野望を持っているけれど、恋した女のことを忘れられないでいる一途な青年。と思えば、恩赦で釈放が認められたモリーナに仲間へのメッセージを一方的に託そうとする身勝手で欲望に忠実な青年。
実際接してみて好きになるかは別問題だけれど、監獄という閉塞感のある環境でこんな魅力的な異性に接しているのならば、(擬似)恋愛に落ちてしまったとしても仕方がない。むしろ、その方が精神衛生上健康でいられる気さえする。笑

”革命家”っていう言葉には、トップダウン組織のゲリラ軍のリーダーであり、カリスマっていうイメージを持ってしまっていたので、ヴァレンティンのキャラクターとは違うし、むしろその一員であるっていう方がちょっとしっくりきたという意味で、先述の通り差を感じてしまったんだ。リーダーだろうが、組織の一員だろうが、弱った時にはそれなりに不安定になるだろうけれど、もっとピュアで自分の信念に燃えている若者って感じがしてとてもよかった。不安はあれど、自分の力で世界を変えることができるって人に語れるあたり、大胆不敵で若いなって感じた。
(でも演出の裕美さんは会ってみて、少年ぽさを前面に出す方向からもうちょっと男っぽい印象にって変えてくれたんだけどね)

ただ、元恋人への手紙を口述しているシーン。「君の匂いが僕の鼻に残っているように、」まではまだいい。「君の中にも僕が少しは残っているだろう?」(全て雰囲気)はちょっと嫌だった*1。笑 お互いが未練を残して別れたんだろうから、まぁ引きずっててもおかしくはないかもしれないけど、別れた女がいつまでもあんたのこと好きでいるわけないだろう!って説教したい。

 

他方でモリーナ。生まれてからオカマ、所長には変態、ヴァレンティンには女みたいな奴と、母親(親族もかな?)や同類以外には理解されることがなかった。でも、モリーナは同性愛者なんじゃなくて、心が完全に女性なの。*2でも自分の身体が男だってことは理解してる。だから自分を卑下して(もしくは守るために)”オカマ”だなんて言ってるんだ。
(というか、この小説が刊行された当時はまだ性同一性障害が一般的でなかったのかな、詳しく調べると時間が掛かりそうだから割愛。*3

モリーナは病気の母親を盾に取られて、ヴァレンティンから情報を取るスパイとして遣わされる。どんなときも自分を守ってくれた勇敢な母親が病気になっているのに、息子の自分が淫行で投獄されているなんて、母親の面倒も見れないなんて、どれほど不甲斐なく感じただろう。政治犯から情報を入手して恩赦を得ることで母親の元に戻れるという交換条件を飲むことは容易かったに違いない。

でもヴァレンティンは魅力的な男だった(2回目)。想っている女が未だ心に棲んでいることを知ってさえ愛しく思っただろうし、心の距離が近付いて身体を許し合うことになる。(これは勢い...というか突発的な肉欲のため起こったのか、精神的な繋がりを示すための必然だったのかまだよくわかってない。んー言葉にしてみるとすると、閉塞感溢れる異常な環境でのストレスが相手に対する愛しさへの表現として振り切れたのかなって。親愛行動が強く出すぎたというか、異性間の友情がちょっとベクトル曲がって表現されたというか。シャバで友情が築かれたなら、きっとそこまでいかなかったんじゃないかな)あんなに大切だと語っていた母親についても「彼女はもう十分生きたのよ」と言って、ヴァレンティンのために命を懸けて、彼の願いを叶えようとする。

はーなんていい女なんだ。。

 

ここまで勝手に書いといてなんだけど、誰の解釈とも一致しなそう......笑
まいっか。続けるね?(ひとりごと)

小説と舞台で大きく違うのは、劇中で語られる映画の数である。
これは原作者の指示みたいだけど、文字で見るのと舞台上で見るのでは役に属する情報量が違うのだから当たり前かなーと。1つの映画についてだけ語ることで、物語の中の黒豹女と、モリーナが称される蜘蛛女が1対1で対比されるからわかりやすくてよかった。複数の映画を語っていたならば、その映画の内容、もしくは2人の関係性の変化どちらかに気を取られて、本筋を見失いそうだったから。*4

劇中、2人はそれぞれ下剤を盛られるんだけれど、お腹痛がるところや、お腹痛がってる人への同情が尋常じゃなくリアリティあったよね?笑 全然笑いどころではなかったけれど、思わず笑ってしまった。
経験はものを言うということか。

 

他の方の感想を拝見したところ、なぜ蜘蛛女のキスの主人公がヴァレンティン単独に設定されているのか、蜘蛛女とは何か、そしてキスが意味していることについてなど、私とは違う視点で書かれていてとても面白かったです!(稚拙な感想)

私自身も、台詞の分量は明らかにモリーナが多いのに、どうしてヴァレンティンが主役なんだ...?と思っていたので溜飲が下がった。
黒豹女が建築家とキスをしないようにしていたのも、原作読むまで気にしてなかったし(というか劇中で話されていたかどうかも定かではない)、タイトルになっているのにもかかわらず、私はヴァレンティンとモリーナのキスが重要なものという認識が薄かったんだな。

そのときは、思い切りとリスタートのきっかけくらいにしか考えてなかったけど、その裏にもいろいろ汲み取ることができる要素がいっぱいあったんだなぁー。思慮深い方がいてすごい。感動。

 

加えて、私が考察しきれてないところといえば、モリーナを蜘蛛女と呼んだヴァレンティンは、自身をその巣に掛かった獲物だと認識しているのか。それともモリーナの懐に包み込まれる男全体を評してそう表現したのかな。
前者だとしたら、その蜘蛛の巣に掛かってどう感じていたんだろ。居心地がよかった?それとも逃げたくて仕方がなかった?後悔を抱えたままその餌食になった?楽しかった日々を思い出しながらその生涯を終えて幸せだった?

ハッピーエンドと悲劇

上段で語ってもよかったんだけど...(めんどくさくなったからフレッシュな自分の感想tweetを引用することにする)

  • ラストシーン、私はあれがどういう状況か今でもちゃんと分かってはいなくて。全て想像で夢の中の話と思って見てたけど、話し始めは「ここを出てからどうなった?」たから事実ベースで話をしているのかなって。現実世界ではなく、夢の中やもしくは天国で再会して話をしているみたいな、そんな感じ。
  • 獄中でしていた映画の話と同じように展開するから、なんだか現実の話をしているのとは違うみたいな感覚で。悲劇的な現実が待っているにしても、刹那的でもあの二人は幸せな時間だったんだなーって思えて、だからハッピーエンドだと思ってる。
  • どっちもハッピーエンドといえばハッピーエンドだけど、小説の方が悲劇感強いね...
  • 小説はモルヒネ夢現の中、ヴァレンティンとマルタがハッピーエンドの夢なんだからと語っていたり、自意識によるマルタの人格が、モリーナは自分の正義のために満足して死んだのではなく映画のヒロインみたいに自分から殺されて死んだのだと告げて、深層心理ではヴァレンティンも勘づいてたんだって。
  • そして何より、最後にヴァレンティンが思い浮かべているのはマルタであること、身も心もマルタを求めていることが強く描かれていて、だからこそ最後の日にモリーナが母親でなく自分のために生きたい、それがヴァレンティンの望みを叶えることだっていう女心が報われなかったのだというところが悲しい。
  • ヴァレンティンは世界を変えること自体は自分の手で成し遂げられなかったと思うけど、最後にある意味では自分を失うことなくマルタと幸せな夢を見続けられる(現実世界ではリジェクトされているからこそ)ことがハッピーエンドだし、モリーナはモリーナで自分のことを自分が愛した男のためにそれこそ搾取されているわけでもなければ馬鹿にされているわけでもない人生を選択して終わりを迎えられたのならそれはそれで幸せなのではないか、とね。 

他人から大事にされるようにすること、自分を粗末に扱わせたり、搾取させたりしないで」ってヴァレンティンのセリフ、沁みたなぁ。。マイノリティであるが故に自己評価?自己肯定感?が低いモリーナが、子供のころからあまり褒められることなく育ってきた自分自身にリンクしたから。

発表されたときの心境とその後

「腕のある役者ならやってみたいと思う舞台」「やろうかどうか悩んだ」
演出家の方、共演者の方のそんな言葉を読んで、期待が高まったし、同じに不安も感じた。失礼な話ですよ。 

私、大倉さんの舞台は見たことなかったんですよねー。SHOCKのDVDくらい。あんまり舞台芝居しているわけでもなく、旧土9枠のコミカルお手軽ファミリー向けドラマに通ずるところがあるような役どころであった。
気にしなきゃいいのに、「演技がいつも同じ」「普通」なんて言葉に傷付いたり、与えられた役柄に文句を言ってみたり(心の裡だけね)、もっといい役がきて認められればいいのに!とか、最新の根津さん*5は特に文句付けようがなかったのに!とか。実際、演技力を評価していないのは私自身だったのだと思うけど。ごめんね。好きだよ。(どさくさ)

私が好きになる人はみんな、裏側の努力を見せたがらず、表舞台において評価されたいような人たちばかりな気がするけどなんでだろ。そんなプロ意識高い人たちが好きだからなのかな。
普段は目標を口にせず、不言実行のところに男っぽさを感じる。あとは隠しきれてない野心。いつかみっくんとも話していたよね。
この舞台は間違いなく名刺代わりになる作品になったと思うし、俳優(と呼ばれたいかはわかんないけど)としてこの経験値を自信に変えて進んで行ってほしいな。フトコロノカタナを見た今だからこそ強く思うよ。

普段の私もそうだし、劇団☆新感線のいのうえさんもおっしゃっていたけど、日本では演目よりも役者の方に固定客がついていることが多いと。確かに、蜘蛛女のキス自体も大倉さんが出るとなってから俄然興味が出た。けれど一回観劇してからどうしてもまた見たくて仕方なくて、その気持ちは大倉さんが見たいというよりもこの物語自体をもうちょっと丁寧になぞりたいなって思ったんだ。現在舞台班として日々活動(?)しているけれど、演目によって観劇を決めたのはこれでまだ2作品目。何が言いたいのかというと、役者目的で観劇しに行ったわけではないのに、そこに応援してる人が出演してるのがとても誇らしい。そういう役者さんになってくれていて嬉しい。(うまく言えなくて悔しい)

 

最後に、渡辺いっけいさん。大好きな俳優さんだから共演してもらえるのが嬉しかった。モリーナがゲイなのではなく、内面が女性である(=トランスジェンダー)というのと同様、いっけいさんはゲイ役を演じているのではなく、女性役を生きていた。そしてそこに、他者から見たら男であるという葛藤も含まれていて。年下の男が可愛くて仕方がない面倒見のいいお姉さん。意識的にヴァレンティンを観よう!という強い意志を持たない限り、私はずっとモリーナを目で追ってしまっていた。私もモリーナになれるかもしれないと思った*6。そしてこのモリーナを観た後では、私は愛に生きる強い女にはなれないと思わされました。

演出の鈴木裕美さんも、本当にありがとうございました。積極的誤読のおかげで私は幸せな気持ちで帰ってくることができたんです。ブルームーンマクベスも拝見はできなかったけれど、蜘蛛女のキスに出会わせてくださってありがとうございました。ありがとうのバリエーションがないのが悔しい。大好きです。

 

本当に短いけれど幸せな夢を見せてもらった。

ヴァレンティン、そしてモリーナ。
夢から醒めてもなお、夢を見ていたことを覚えているよ。

 

当日券

ついでだから当券チャレンジについても。
1回観劇できるだけでじゅうぶん!と思っていたのですが、作品の魅力に憑りつかれて、うわごとのように蜘蛛女が観たい...と呟く日々。
千秋楽公演については、当日券のキャン待ちにて入手しました。
もはや家電とかガラケーとかスマホとか関係ないんじゃないの?とは思うけれども。

12:00開始で繋がったのは12:52くらいでしたね。結構当日券の枚数が出ているという現状ではあったけれども、さすがに千秋楽で倍率激高だろうし、キャンセルなんて出るわけがなかろうし...と半ば諦めている中で繋がりました。
心の支えになったのは、「歌舞伎会はオペレーター対応だから捌くのに時間がかかる」という状況を知っていたこと。今回のシステムもぴあ(の電話番号)を使っているのでどうかな?と思っていたのですが、まぁ1時間くらいかけて繋がんなかったら諦めようとは思ってました。(実際前日の2公演は13:30くらいに試合終了のアナウンスを聞いたのでそれよりは早く終わってしまうだろうとの見込み)

繋がってみればオペレーター対応だし、キャン待ちも若い番号だったので、期待と諦念を不安定なバランスで抱えながら1日を過ごしました。笑
当日はするすると呼ばれ、お隣に座った方もキャン待ちからの入場だったらしく、とてもいいお席で喜び合いましたとさ。

本当に関係各所の方、ご都合悪くてご来場できなかった方、代わりに堪能いたしました。ほんとうにありがとうございました!

 

(乱文が過ぎるので気が向いたら加筆修正しますという保険)

*1:物理的感覚もしくは...のことを言っているからかな

*2:だから裕美さんはトランスジェンダーって呼んでたよね

*3:世界で初めて性適合性手術が行われたのは1930年代だけど

*4:原作では複数の映画が語られることによって、「いつだってヒロインに感情移入」してしまうモリーナという骨格が形成されていくように感じられた

*5:疾風ロンド

*6:もちろん演者という意味ではありません