2017年5月鑑賞記録

現場ない間はただの映画botのつもりで生きてる。(botになりきれてない)(そもそもbotとは?)

26.カフェ・ソサエティ(2016・米)
なんというか...古き良きハリウッド(に限らないけれど)を描いた映画があまり肌に合わないなーとラ・ラ・ランドぶりに改めて思わされた。
フィクションとして、映画として割り切れる性格じゃないんだろうな、と思う。映像の美しさや音楽の素晴らしさ、俳優の演技よりも1つのストーリーとして上手くまとまっているかが一番重要だと思っているからかも。

ということで、どこが一番気に食わなかった(言い方よ...)かといえば、主人公の成功者ぶりかな。アメリカンドリームと言われればそれまでだけれど、映画プロデューサーをやっていて顔が利く叔父と、裏の仕事に手を染めてる経営者の兄がいることは確かに状況としてのし上がりやすいと思う。けど、あんだけパッとしなかったのに横のつながりととコネだけでそんなうまくいくものかのかな??納得いかない(コミュ障故の僻み)。あと、不倫相手と別れる別れない、けれども恋人とも別れがたいというあたり、とてもイライラした。何を見せられてるんだー勝手にやってくれー!!そんなストーリーにドラマ性が感じられなかったんだ。

パーティドレスを着ている女性陣がたくさん出てくるので華やかだったなぁ!

ナレーションをウディ・アレン自身がやってるってどっかで見た気がするけど、本編見てる時はすっかり忘れてしまっていた。シャレのわかるおじいちゃんって感じで結構印象的だった。
スティーブ・カレルとパッセンジャーでアンドロイドを演じたマイケル・シーンってなんとなく似てない?並べられたら違いが判るけど、ずっと勘違いしてたわー。どこかで見たと思ってたのは、ハンズ・オブ・ラヴやマネーショートが印象的だったからなんだね。
似てると言えばクリステン・スチュワートエマ・ワトソンもなんとなく骨格似てない?髪切ったからなのかな、最近の映画ポスター見てちょっと感じただけなんだけど。眉のあたりの骨格が似てるなと思ったけど、今画像見たら全然だね。クリステン、綺麗になったよね。

ブレイク・ライブリーが美しすぎてもはや何でもいいとねじ伏せられた感もあるな。

27.追憶
演技上手い人だけ(と断言してもいいか迷うところもあるが)を集めました☆という映画だった。
3人の昔なじみが被害者、被疑者、刑事とそれぞれの立場が変わって再会することになりますよーというあらすじであったものの、蓋を開けてみたらその事件の動機・真相は割とどうでもよくて、昔に何があって、現在にどう繋がっているかという流れが美しく描かれているなという印象でしたね。
過去パートは当然子役が演じているのだけれど、身体的に特徴がある子を除いて、どっちがどっちの役だったのかわかりづらく。だからこそ現代パートで抱えているものが類推できてより印象深かったのかな。

年を経て長澤まさみちゃんが本当にお上手になったね.......流産して、2人での生活に疲れ切って、諦めがにじみ出たような雰囲気がリアリティが感じられたなぁ。
それに対比して、実世界では同い年の木村文乃ちゃんは出産を控えた幸せな奥様。バイタリティに溢れていてキラキラしていた。(明るさを感じる役だとどうしても台詞回しが舞台役者のように聞こえてしまうんだよなぁ。バラエティとかだと、落ち着いて話す人だからこそ演技なんだって感じてしまう)まぁ、こちらの役は色々な業を背負っているので本編でどうぞ。なんとなくここで書くにはもったいない設定だったから。

岡田くんが頭を撫でられているシーン、本編ではここに位置しているのね!と腑に落ちた瞬間もあり。今回も安藤サクラちゃんは素晴らしい。元気でも病気でも美人でもブスでもそう見えるんだからなぁー。日本にとどまっているのがもったいないと常々思っている女優さんの御一人。

28.スプリット(2017・米)
「あなたはこの結末を予想できない」これは果たしてどこに掛かっていたのだろうか...ほんとの最後の最後ならまぁ、確かに。だけどこれはシャラマン監督作を把握してる人にしか通じないね。うーん、もったいない。

3人の女子高生が誘拐されて、その犯人は23+1の人格を持つ男。この触れ込みとっても気にならない?でも、ちゃんとストーリー中に出てきたのは、
潔癖症で、リーダーになり替わった男
・優しい雰囲気の女
・無邪気な少年
(・デザイナーの男)
(・+1 ビースト)
だったから、あ、なんだ、全編にわたって24人格を演じ分けるんじゃないんだというのが最大の裏切り。映像日記中では出てくるんだけど......でもあの映像日記が再生されたことで、一瞬元の人格に戻り、さらに色んな人格に切り替わっていくのが効果的に恐怖を誘ったように思う。1人の人格の中でも、感情が切り替わるところで視線が全く別人のようになったからすごい怖かった。(特に車の中で催眠スプレーを吹きかけるシーン)

ちょっとよくわからなかったのが、以下3つ。
①上に挙げた3人格と残りの20人格の対人関係。24番目の人格を起こすか起こさないかで対立したってことなのかな?1つの体を共有してる人格ですら、ビーストに呑まれそうで怖いから起こしたくなかった?周りの人たちへの危惧は感じられなかったし。

潔癖症の男がスポット(代表する一人格として表層してくること)が当たらなかった理由として、「裸の女がダンスを踊るところを見るのが好き」かららしいけど、これって言葉通り受け取っていいのかな?英語聞きそびれたから文字でしか覚えてないんだ....潔癖症だから汚れた服を女の子たちから取り上げて洗濯するのかと思いきや、返してくれるわけではなく...そうやって徐々に裸にしていこうと思ってたのかな。

③女の子たちが誘拐された理由。おそらくビーストが完全に覚醒するための供物にするためだと思うんだけど、どうして腹部だけ食べられることになったんだろう。幼少期の虐待に由来するのかな。被害者は(虐待をされていない=”pureでない”)若い女の子でなければいけなかったのか。どうしてカウセリングしていた先生は脊椎破壊という方法で命を奪われたのか。(そもそもこの先生はどういうルートで地下室を通ってきたんだろ...まともな通路がなかったように思えるのよ)

近親相姦には耐性がある方だと思っていたけど(人間の歴史的によくある話だから)、今回のは気持ち悪かったな。ペドフィリア(とは限らないけど)はある種、人権侵害だからね。まぁ、小児相手だとそもそも犯罪なんだけどさ。叔父さんが、森の中で動物ごっこしようよって自分の服を脱ぎ、姪の服を脱がせ...って言うのがあーもう胸糞悪かったー。しかも父親が死んじゃったからその男に引き取られなければならなかったという悲劇ね。そこからの展開でもう大体読める。
ヒロインが「(何回か脱がされてるのに)服をいっぱい着ているね」と言われる理由が、虐待で受けた傷を隠すためだったのだけれど、性的虐待だけだと思ってたら色々傷もつけられてたのね。

そうそう、このヒロインは変わり者で学校で問題ばっか起こして皆から避けられてるという設定だったのだけれど、家に帰ると虐待する叔父が待っているから。その伏線が回収されたときはなるほどなーって思った。

トーリーとしては疑問が残るけど、ジェームズ・マカヴォイの迫力には圧倒されたし、何よりシックス・センスなど不気味かつ癖になりそうな雰囲気を漂わせるシャルマン監督らしい映画だったからある程度は満足できました。

29.マンチェスター・バイ・ザ・シー(2016・米)
この映画を観に行けてよかった。そう言えるくらいの傑作だった。

公式HPの中で、西川美和監督が次のようにコメントを寄せていた。
 映画はたいてい、快復や、成長や、再出発を主人公に強いる。だからこそ観る者は満足もするが、所詮作り物だな、としらけることもある。(抜粋)

これがまさにその通りで、この映画を見た人の中には、もっとドラマティックで派手な展開が用意されていた方がよかっただったり、あるいはバッドエンディングのように感じられたりした方もいただろう。けど、ここ最近の映画を見ていて私自身もよく言っていることではあるが、「フィクションの映画なのだからもっと盛り上がりがあってもよかった。でも特に大きな事件が起こらないまま日常が過ぎていくのが日常なのかもしれない」この言葉を実感、いや体感させられた作品だった。ま、好みでしょうけど。

ということで、それぞれの立場でどう感じたかをまとめたくなった。

リーおじさん;帰りたくない理由がある故郷がある。自分のことも大切にできないから他の人のことなんてなおさら(でも目が合っただけで殴りかかるのは自暴自棄過ぎると思うけど)。大切な妻、大切な子供たち、大切なものが詰まっていた場所を自分の不注意で失ってしまった。自分が一番自分を責めてるのに、周りの人の目が余計辛い。そんな自分がそんな街で甥っ子を引き受けるわけにはいかない。それを知っててなぜ兄は自分を後見人に?もう既に別の場所で別の人生を送っている。自分はまだ、そしてこれからも立ち直れそうにないからその生活に合わせてもらうしかない。そうやって生きていくしかないのだ。

きっかけ後→自分すら許せなくなっていた自分を許し、受け入れてもらえたことでやっと救われたような気持ちをほんのちょっとだけ感じ始めた。その緩みによって、パトリックも子供っぽく自分の欲望や都合を押し付けて来てるのではなく、自分と同じように傷付いているということを受け入れることができた。でも自分はどうしてもマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ってきて生きていくことはできない。それならばパトリックの希望をできるだけ叶えてあげよう。自分が考えうるだけ一番いい形で。家も親も変わるけど、父との幸せな思い出が詰まった船だけはそのままで置いておける。たまに遊びに来る。甥との距離は変わらない。そんな生活でいい。

パトリック少年;母親はアル中だった。一方で父親は偉大だった。大好きだった。彼女をこっそり自室に泊めても、彼女の親には口裏を合わせてくれた。昔から船に乗って遊びに連れてってくれた。学校、バスケ、ホッケー、バンド、二股、好きなことはなんだってできた。父親がいなくなってしまった。叔父は自分を引き取るのにあまり積極的ではないようだ。施設に入る?叔父は一緒に暮らすためにボストンに引っ越せという。なぜ自分の大切なものを全て置いて行かなければならない?家も船も思い入れがあるのに手放せと言う、春になって墓に入れられるようになるまで大好きな父親は冷凍保存すると言う。何もかもがありえない!母親はメールで連絡を取っていた。あわよくばそっちと一緒に住めばいい...無理だった。更生した母親はまるで別人だった。敬虔なクリスチャンだった。また同じような婚約者もいた。緊張して自分を受け入れがたいようだった。母親が自分を受け入れられないショックもある。でもそのことよりも、母親に会うのでさえその婚約者の許可を取らなければならないなんて。結局誰にも受け入れてもらえない。無力だ。

きっかけ後→何もかもが思い通りにならなくて、けれど代替策も見つけられない、自分には何の力もないと感じていた。自分で車は運転できないし、ピザを頼むお金すらない。叔父に腹が立っていた。叔父が手に傷を作ったり、顔を怪我して現れる日があった。彼に使ってもらった部屋にはまだ家族写真が当たり前のように置かれていた。彼にとってはまだ昇華できていない過去なのだと知った。自分が父親を失ったことで感じている虚無感を叔父は何年もさらに何人分も背負っているのだ。自分のせいだと自分を責めながら。父親の葬儀に義叔母が新しい夫とその間に生まれた子供を抱えて来てくれた。それを見つめる叔父を見て、彼はまだ何からも救われずに生きているのだと知った。 自分の主張を通して生きていくのは無理かもしれない。なぜなら叔父がこの街に住めないだろうということを実感してしまっていたから。だから叔父の心変わりに驚いた。提案にも驚いた。以前の自分だったら厄介払いと感じていただろう。でも今なら、叔父が自身の傷を受け止めながら、さらに自分についての最善の方法を提案してくれているのだと考えることができる。家も親も変わる。でもそれ以外は何も変わらない。それ以上のことってない。

すっかりなりきって書いたから伝わるかと思うけど、なんだか自分が2人分の人生を歩いて来たみたいな感覚になったのですよ。だから2時間以上経ったなんて信じられなかった。

重い話のように感じるけど、実生活なだけあってジョークもFワードもふんだんに飛び出すから結構笑えるんだなー。あと、コミュ障のおじさんも笑えるけど、甥っ子も空気読めないような発言があって、血が繋がってるんだなと笑えてくるよ。

30.身毒丸 復活
蜷川幸雄シアター(企画名)にて。私実は蜷川さん演出の舞台初めてだったかもしれない...ということで、結構難易度高かった...かな。一番馴染みがあるのが新感線だからかもしれないし、この舞台が特にそういうテイストが強かったからなのかもしれない。舞台らしいセリフ回しに気を取られ過ぎて疲れてしまった。気持ちの上でどこか幕間を待ってしまっていた(幕間なし上映時間だったから終わってしまうのが早かった)。

でも藤原のたっちゃんも白石さんも命を燃やして舞台に立っているみたいだった。きらきら華があるというよりは煌々と燃え盛る炎のようで、絶対的な第三者の観客として見てるのがちょうどよいくらいだった。これこそ劇場でマチソワしたら座って見ているだけなのに疲れてしまうだろうな。 

現代小説ではあまり見ない話の流れで(当たり前だけど)、あんまり考えがまとまらなかった。元になったお話を読んでみたいなとまで思ったけど、深みにはまりそうなので保留。

31.蒼の乱
事前情報で幕間なしとは知っていたものの、長時間辛いわ...何度も寝返り()うった。いつも思うけど、DVD発売作品なのに劇場に出向いてまで見ようと思う人たちが一定数いるってすごいなー。まぁ音響とか違うし理解はできるけどね。自分がそうだというのもある。

松ケンが舞台慣れしてないというのではなく、映像用の芝居だと言い切れるわけでもなく......なんか今まで見てきた役者さんと文字通り異物感があったんだよなぁ。舞台の上で圧倒的オーラを振りまくタイプの天海さんとはまた別というか、「会いに行けるアイドル」みたいにあ、確かに存在してるんだなというリアルっぽさというか。でも3Dというより2D感が強くてね、変な気持ちになった。ふとしたときに坂東語というより下北弁ニュアンスが覗いた時に(勝手に私が嗅ぎ取っただけ)微笑ましく感じた。

あーもう一回見なきゃなー!

32.ピーチガール
感想放棄。

33.光をくれた人(2016・米豪新合作)

原作が「海を照らす光」でまさにThe Light Between Oceansなのだけれど。
子供があるところからいなくなって、別のところで育てられて...っていうのは、八日目の蝉、母になるなどなど他にも結構ありがちな話なんだけれど。この映画の主題はそんな問題解決にはなかったってところに中盤になって気付いたというわけ。

第1次世界大戦後、心が疲れ果ててしまったトムは孤島の灯台守に志願する。最寄りの街のイザベルに何度か会って手紙をやり取りするうちに(実際はお互い一目惚れだったみたいな描写だったけど)、二人は祝福されて結婚する。何度か身籠るけれども、病院も医者も他の人々さえ誰もいない島で流産、死産をしてしまう。そこへ流れ着いたボートにはこと切れた男と泣き叫ぶ赤ん坊。まるで自分の子供の様に接する妻に「私たちの子として育てましょう」と言われ、葛藤を抱えつつも従ってしまうトム。ルーシーと名付けた娘を洗礼のために本土に連れて行った先で、本当の母親を見つけて...?

っていうお話。あらすじはあまり書きたくないんだけど、これがないと整理できない気がして。。

先だって触れたように、このお話は子供を主軸としているのかと思っていた。しかし序盤があまりにも夫婦のことしか語られなかったのでおやおや様子がおかしいぞ?と。
戦争から帰還後、疲れ果ててオープンマインドで他人と接することができなくなったトム。孤独でも辛くはなかった。そこに自分に愛を寄せてくれる存在であるイザベラがやってきて、その心を溶かしてくれた。同じように愛することができるようになっていったトム。生やしていた口髭を剃るシーンがあるのだけれど、そこがトムの心に光が差しはじめるきっかけに思えた。人相はもちろん若々しくなったけれど、表情に明るさがつくようになったもの。

一方イザベラ。愛する人と2人きりの生活の中、子供を授かる。...そもそも臨月もしくはそれに準じる状態であったのなら、なぜ島に逗留し続けたのかという疑問はあれどそれはさておき。立て続けに子供を失った時の心境を考えた。多分、結婚しなければ、この島に来なければ...などは考えなかっただろう。ただ、元気に産み落としてあげられなかった罪悪感と、母親としての不甲斐なさは感じたんじゃないかな。そういう生命に関連するところで自尊心を失うことになると、回復って結構難しくなるよね。自暴自棄になる描写はなかったけれど、医者(本当は調律師)を呼んだことで怒り狂っていたのは、第三者からそういう烙印を押されたくなかったんじゃないかなって。夫と2人きりっていう閉鎖された状況はある種責めてくる相手も居なくて心安かったかも。
さて、そこに流れ着いたボート。偶然じゃなく神様から育てるように託された子供だと思うのも無理はないかな。というかそう思い込むことでしか自分が救われなかった。エゴかもしれないけれど、この子は私(たち)しか頼ることができないんだって正当化した。親元を探す手段があるのならば試してみるべきだと私は考えるけど、そういう選択肢を除外して手元に置いておきたいと主張してしまうくらい、精神的にバランスを欠いた状態だったんだろうね。

幸せに過ごしていた3人だったけれど、洗礼を受けるために戻った陸の教会では、ドイツ人の夫と女の子を失った未亡人が。トムはその人がルーシーの実の母親だとわかり、娘は生きているということと、自分たちに辿り着くためのヒントを手紙に記してポストへ。数年で2回だけだったけど、幸せそうなイザベラを失いたくないという気持ちと、家族を失ったままのハナに娘を返してあげなければというわだかまりを抱えての行動だったんだろう。”その時”がきたら元通りに、と。

”その時”は来た。ルーシーは(確か)5歳で分別がつけられる年ではない。それまで育ててくれた女を母親だと思うし、住んでいた場所が自宅だと思うだろう。それはイザベラも同じことで。家族は引き裂かれ、トムは職務規定違反やらついでにドイツ人男の殺人の罪までも着せられることに。どうせ戦争で沢山殺してきたのだから、1人くらい増えたところで問題はないだろうと警察には蔑まれ、イザベラには子供を取り上げられたきっかけを作ったせいで恨まれ。初めは殺人は否定していたのだけど、イザベラがどんな供述をしたのかはわからないが、自分に罪が被さるように全てを受け入れた。どうせ戦争で失う予定の命だったのだからと言って。

全てが変わったのは生みの母であるハナも一緒で。やっと愛する人が残した子が帰ってきたのに、グレイスという自分たちが授けた名前も、自分も母親だとは受け入れてくれず、誘拐した男の妻である女を我が子はママと呼んですり寄っていく。絶望感とやるせなさ。ルーシーは住んでいた家の近くにあった灯台を探して行方不明になる始末。
ハナはイザベラにこう言う。「娘は私がいなくても生きていけるけど、私は無理。あなたもそうなんでしょう?夫が罪を全て償うなら、あの子をここに連れてくる」と。

憎いと思っていた夫に自分のエゴのせいで罪を背負わせ、何事もなかったかのようにルーシーと暮らすことができるのか。悩んだのか悩まなかったのかはわからない。けど、読まずに置いておいた獄中のトムからの手紙には、自分に対する深い愛が綴られていた。ここでイザベラも気付くよね。トムが彼の持つすべての愛を自分に向けていてくれたことに。

ラストシーンは大きくなったルーシー・グレイスが息子を連れて育ての父に会いに来るシーン。一緒にいた幼い頃の数年間は遠い記憶になったかもしれないけれど、育ての親の深い愛を感じる。(思い出してるだけで泣けてきた...)
どうするのが子供のためなのかって、両母親、子供それぞれの立場に立ったら適当な解が変わる気がして、議論にはあがらないね。

序盤でハッとさせられた台詞があって。
「夫を失った妻には”寡婦”という名前があるけど、子供を失った親の呼び名はない。母はいつまでも父(父親も出兵しちゃうからという意味かと思った)だし、私はずっと”妹”のままなの?」
人はその関係性に縛られ過ぎることがある。それは、ハナと結婚したドイツ人も一緒で、敵国だったおかげで詩集を買いに行けばドイツ人なんかに詩を理解できるわけないと売ってもらえず、街では絡まれ。時代や地域性もあるけど、個としてしがらみを意識せず生きていくのは難しいんだなって考えさせられたとさ。 

アリシア・ヴィキャンデル、整い過ぎてない美人というか愛嬌があって好きです。